葛飾区
青砥神社
千隻万隻の船
子供の正月行事に使われていた船。青戸では大正の始めまで伝承されていた。
まず、村の当番の世話役達が水神さまをまつる船を作り、船の左右には穴をあけ御幣をたてて、真ん中には特に立派な御幣をたてる。これを神輿のように小学生達が担いで『千隻万隻ぜにおくれ』と大声を張り上げながら町内の一軒一軒を回り、お祝金を貰った。集められたお金は学年に合わせて分けられ、また、金額の多い少ないによって、船に飾ってある金・銀・白の御幣を抜いて、お金をくれた家に渡して歩いた。
貧しい家の子達が寂しいお正月を過ごさないように行われていたと言われ、日本版ハロウィンのような楽しい行事だったという。
江戸川沿いの地域の風習で、東京では青砥神社の他に江東区の香取神社にも残されている。
まず、村の当番の世話役達が水神さまをまつる船を作り、船の左右には穴をあけ御幣をたてて、真ん中には特に立派な御幣をたてる。これを神輿のように小学生達が担いで『千隻万隻ぜにおくれ』と大声を張り上げながら町内の一軒一軒を回り、お祝金を貰った。集められたお金は学年に合わせて分けられ、また、金額の多い少ないによって、船に飾ってある金・銀・白の御幣を抜いて、お金をくれた家に渡して歩いた。
貧しい家の子達が寂しいお正月を過ごさないように行われていたと言われ、日本版ハロウィンのような楽しい行事だったという。
江戸川沿いの地域の風習で、東京では青砥神社の他に江東区の香取神社にも残されている。
青砥神社について
この周辺は古くから米どころとして、室町時代には伊勢の神領地とされ、早稲の新米を新嘗祭に供しており、安土桃山時代の天正年間の文献によれば、三社明神(稲荷・白鬚・諏訪)と称して里の鎮守とされていた。明治5年、社名を白鬚神社と改称、その後、昭和18年に近隣の白山神社を合祀して青砥神社と改めた。昭和35年、町内の高木神社、八幡神社、北野神社、葛葉稲荷神社、水神社を合祀。また、鎌倉執権の補佐として名高い青砥藤綱公も御祭神として祀られている。
【鎮座地】東京都葛飾区青戸7-34-30
(令和6年2月寄稿)