中野区
氷川神社
中野区登録指定文化財
敷石供養塔・石橋供養塔
表参道の石段を上った右手、手水舎の脇にあり、いずれも幕末の安政6年(1859)に建てられたもの。
写真左側の敷石供養塔は慈眼寺の僧・覚順が八十三歳の時に補修をしたと刻まれている。覚順は氷川神社の別当職を兼ねており、村人から生き仏と呼ばれ慕われていたという。
写真右側の石橋供養塔は、氏子達によって神社石段下の大鳥居前に流れていた川に石橋が造られ、その安全を祈願して建てられた。当時、橋などの建造に際しては、必ず、通行の安全や疫病などが川を越えて入ってこないように供養が行われたようだが、現在、都内にはほとんど残っておらず、歴史的な価値が高いことから、平成9年に中野区登録指定文化財として指定された。
写真左側の敷石供養塔は慈眼寺の僧・覚順が八十三歳の時に補修をしたと刻まれている。覚順は氷川神社の別当職を兼ねており、村人から生き仏と呼ばれ慕われていたという。
写真右側の石橋供養塔は、氏子達によって神社石段下の大鳥居前に流れていた川に石橋が造られ、その安全を祈願して建てられた。当時、橋などの建造に際しては、必ず、通行の安全や疫病などが川を越えて入ってこないように供養が行われたようだが、現在、都内にはほとんど残っておらず、歴史的な価値が高いことから、平成9年に中野区登録指定文化財として指定された。
氷川神社について
平安時代の長元3年(1030)、源頼信が平忠常の乱を平定する際、武蔵一宮の氷川神社(埼玉県さいたま市)から勧請したのが創建とされる。中野村の開発に伴い、室町時代の応永年間(1394〜1428)に社殿が改築され、その後、文明9年(1477)に太田道灌が豊島氏との合戦の折、戦勝祈願が叶い、社殿を造営したと伝えられる。旧中野村の総鎮守で、江戸時代の祭礼では、湯立神楽や獅子舞、相撲などが盛大に行われたという。
【鎮座地】東京都中野区東中野1-11-1
(令和4年10月寄稿)
氷川神社のページへ