青梅市
鹿島玉川神社
市指定有形文化財
開平三知流剣術奉納額
幕末には、黒船来航などによる治安悪化から剣術が盛んになった。青梅では開平三知流(かいへいさんちりゅう)剣術始祖三田左内、柳剛流三代目石川良助など多数の剣客を輩出しており、その中で三田左内は奉納額を二つの神社に奉納している。一つは慶応3年(1867)3月、武蔵御嶽神社に奉納され、鹿島玉川神社には明治3年(1870)閏10月21日に奉納された。奉納額は縦100センチ、横222センチ、その中に左内の子三田愛吉、路昇衛、賢五の3人のほか、307人の名前が記されている。
小説「大菩薩峠」を書いた中里介山は奉納額をみて構想を練ったと思われるが、机龍之助のモデルが三田左内で、小説に登場する机姓を奉納額の中に見ることができる。三田左内は天保元年(1846)7月25日に生まれ、武州多摩郡調布村下長淵(現:青梅市長淵)に生まれ、本姓は相馬。この地域の領主三田氏の一族で、幼名は総次郎、成人して左内宗美と称した。明治32年(1899)享年70歳にて没した。剣術家であると共に、医者であり明治23年(1890)から調布村の村長であった。幕末から明治へと時代の大きなうねりを、一枚の額から感じ取ることができる。市指定有形文化財
小説「大菩薩峠」を書いた中里介山は奉納額をみて構想を練ったと思われるが、机龍之助のモデルが三田左内で、小説に登場する机姓を奉納額の中に見ることができる。三田左内は天保元年(1846)7月25日に生まれ、武州多摩郡調布村下長淵(現:青梅市長淵)に生まれ、本姓は相馬。この地域の領主三田氏の一族で、幼名は総次郎、成人して左内宗美と称した。明治32年(1899)享年70歳にて没した。剣術家であると共に、医者であり明治23年(1890)から調布村の村長であった。幕末から明治へと時代の大きなうねりを、一枚の額から感じ取ることができる。市指定有形文化財
鹿島玉川神社について
口伝によれば、承平年間、源経基が武蔵介に任ぜられた時、上古より神霊の降坐処と称し里人が敬畏していた巨大な神石を清浄地として選び、鹿島神宮の分霊を祀って鹿島大明神と称したと伝えられる。元和年間に社殿の修復、慶安2年(1649)10月、徳川幕府より2石8斗の御朱印地を受領した。相殿玉川大明神は承応2年(1653)玉川上水開削の時、飲用者の無病息災を祈願した。その後明治5年(1872)に村社に列格、明治11年(1878)に鹿島玉川神社と社名を改称。境内は市史跡、鹿の舞は市無形民俗文化財、本殿は都指定有形文化財に指定されている。
【鎮座地】東京都青梅市長淵2-519
(令和2年3月寄稿)
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